院長の性格

当院のホームページには、たくさんの文章が書いてありますからホームページを読んで予約される方は私のことを「よくしゃべる人」だと思われる方も少なくありません。

しかし、どちらかというと私はしゃべるのが苦手です。
特に人前で話すのが子供の頃からすごく苦手でした。

小学校や中学校の国語の授業で「音読」ってありますよね。
一人ずつ教科書を声に出して順番に読んでいくやつ…。
あれがもう、嫌で嫌で仕方がありませんでした。

緊張して、顔は赤くなるし、声は震えるし・・・。
本当に授業が憂鬱でした。

大人になるにつれて人前で話す機会にもそれなりに対応できるようになりましたけど、今でも苦手なことに変わりはありません。
いろいろ努力して改善した部分もありますけど、生まれ持った性格は変えられません。

ある時期から、短所を無理やりなくすのではなく自分の長所を伸ばすような方針に変えました。
苦手なことややりたくないことは出来るだけやめて、得意なことを一生懸命やろうと思ったのです。
そのような考え方に変わってからかなり人生も変化しました。

だから、接客商売にも関わらず元気で大きい声も出せないし、流暢にペラペラしゃべることも出来ません。
いつもボソボソたどたどしくしゃべっていますが、大切なことを心を込めて丁寧にお伝えするように心がけています。

自分は声も暗いし声も小さいしコンプレックスを抱えていた時もありましたけど、自分自身が心地いいトーンで話すことを心がけていたら「先生の声を聞くと落ち着きます。」とか「癒されます。」と言って頂くことも増えてきたのです。

短所や欠点は、見方を変えると長所になり、その人が輝ける素晴らしい強みにもなります。
自分のことが嫌いで悩んでいる人も多いけど、ちょっとだけ見方を変えると人生が大きく変わるかもしれません(^^)

私は子供の頃からすぐに緊張する性格なので、自分が初めての場所に行くときにはとても緊張します。
だから初めて当院に来院されるクライアントさんが緊張する気持ちもとてもよくわかります。

どんな先生なのかまったくわからないより、私のことを事前に知って頂くことで、来院時の緊張が少しでも和らぐといいなと思っています。

これまでの経歴も詳しく書いてありますのでご覧いただけますと幸いです。

院長の経歴

1972年に仙台市で生まれました。

父親の仕事の都合で2才のときに仙台を出て、小学生時代は埼玉県の川越市、中学・高校時代は新潟市で過ごしました。

長野県の信州大学繊維学部を卒業し、名古屋の繊維メーカーに就職してサラリーマンになりました。

母の死や自分の体調不良をきっかけにして、健康関連の仕事への興味が高まり、自然食品を販売する会社に転職しました。
自然食品店時代には、マクロビオティックを中心とする食改善や、食品添加物の害、食べ物と健康の関係について学ぶことが出来ました。

食のバランスを改善することで健康を取り戻せるのだということが実感できました。
また、水の大切さ、波動療法などについても学びました。

徐々に直接人を癒す仕事をしたいという気持ちが高まり、カイロプラクティックの学校に入学しました。
基礎医学、解剖学、栄養学、神経学などを専門に学びました。
骨格構造の歪みと症状の関係、神経のはたらき、骨格矯正の専門技術などをしっかり身につけました。

在学中から治療院へ就職し、臨床経験を積みました。
実際の患者さんを診ることの大変さ、教科書どおりにはいかない難しさを感じました。

しかし、自分の施術によって患者さんの辛い症状が改善することができるようになったとき、本当にこの仕事を選んで良かったと心から思いました。

「楽になったよ」「痛くなくなった」「ありがとう」そういった言葉をいただけたとき、この仕事をしているやりがいと喜びを感じます。

カイロ学校を卒業後もしばらく治療院で臨床を積みました。
開業の希望は当初からありましたが、臨床を積むうちに、だんだん自分の施術院を開業する夢が具体的にふくらんできました。

それは、自分自身がもっとも受けたい施術、こんな整体院があったらいいなぁというイメージを実現することでした。

開業するにあたっては、どこにでもあるような施術院ではなく、自分の理想とする院を創ろうと考えました。

  • 心も身体も深くリラックスできる
  • 自然治癒力を引き出すお手伝いができる
  • 健康になり運も良くなる

そんな院を創ろうと思いました。

そして、内装や看板のデザインもすべて自分で考え、工事業者さんとも何度も打ち合わせをして、 2004年4月に「やすらぎの杜整体院」が出来上がりました。

おかげ様で開院当初からたくさんのクライアント様に恵まれ、仙台市内だけでなく県外からも多数の患者さんに通っていただけるようになりました。
本当にありがたいことだと思います。

現状に満足することなく、日々研究を重ねて、勉強を繰り返し、より一層の技術の向上に励みたいと思います。
この仕事には、ここまで勉強したからこれでよし、ということが無いように思います。
一生勉強が続くと考えています。

一人でも多くの方の、つらさを取り除くお手伝いをして、喜んでいただけるようこれからも精進していきたいと思います。

母の死

高校3年生の秋に母が亡くなりました。
私にとって、現在施術という健康に携わる仕事をしていることと、母親の死は深いところで繋がっているような気がしてなりません。

高校2年から3年に上がる春休みのことです。
母が入院することになりました。

実はあとで知ったことなのですが、その何年も前から母本人は体調がよくなかったそうです。
しかし、私たち家族に心配をかけたくないという思いと、病院へ行ったらもう帰ってこれないかもしれないという不安感から、誰にも何も言わずに頑張っていたのです。

ギリギリまで頑張って、体が限界まで来てしまって、母は寝込むようになりました。
私たちは単なる疲れか、風邪だと思いました。

1週間たっても様子が変わらないので、ついに病院で精密検査をすることになりました。
結果は末期の膵臓癌でした。

しかし、母本人と私たち子供(私と弟)には母がガンだということは知らされませんでした。

半年ほど入院しましたが、手術をできる状態でもなく、すでに手遅れで、残された時間を家族とともに過ごせるようにと退院することになりました。

私と弟は、母が回復して退院できたと思って、少し安心しました。
母も表面上は嬉しそうにしていましたが、もう残された時間がわずかだということが本能的に分かったのかもしれません。

退院した翌日から、心配をかけた周りの皆さんにと、快気祝いの品物を張りきって買い揃えて、入院生活で、ぼさぼさになった髪の毛を美容室に行ってきれいにパーマをかけなおしてきました。
その数日後、眠っている間に、意識不明の危篤状態におちいりました。

その晩に、父親から実は母はガンの末期だったということを告げられました。
もしかしたら、意識が戻るかもしれないし、このまま意識が戻らないかもしれない、と言われました。

前日まで元気に会話していた母と、もう2度と話すことは出来ないのかと思うと、様々な思いがこみ上げてきました。

感謝の言葉を口にすることもなかったし、言うことを聞かないでけんかばかりしていたし、それでももう、「ごめんなさい」と言っても、「ありがとう」と言っても母には届かないのです。

結局母はそれから3ヶ月後、一度も意識を取りもどすことなく旅立っていきました。

私はその3ヶ月間、いろいろなことを考えました。
健康のこと、人生の意味、意識や魂のことなどについて真剣に考えるようになりました。

  • 人生とは何のために生きるのだろう?
  • 人の意識って何だろう?
  • 病気を防ぐことは出来ないのだろうか?
  • 自分はこの先、どんな人生を歩めばよいのだろう?

考えても考えても答えが見つからず、頭の中で堂々巡りがくり返されました。

普通に大学に進学し、普通に会社に就職したのですが、心の中ではいつも「これでいいのだろうか?」と感じていました。
模索しながらも健康について勉強を続けました。
哲学書など人生に関する本もいろいろと読みました。

さまざまな本を読んで、人に会い、たくさんの話をして、悩んだり迷ったりしながら、何年もかかって自分の道を探しました。
そうして紆余曲折を経て、この仕事にたどり着きました。
今となってみれば母が導いてくれたように思います。

体調の悪化

高校を卒業後、無事に現役で国立大学に進学することが出来ました。
受験勉強も終わり、一人暮らしを始めた開放感から、とにかく遊びました。
毎晩、毎晩明け方まで仲間とドンチャン騒ぎをして、近所の方にも迷惑をかけました。

夜の11時といっても、夕方くらいの感覚でした。
深夜2時頃になると、それじゃそろそろ外に遊びに行こうか、といった感覚で、私の今の生活からは考えられないくらい、昼夜が逆転して、不規則な生活をしていました。

遊んだりアルバイトをしたり、ちょっとくらいは勉強もしましたが、若くて体力も余っていましたので、あまり睡眠もとらず、元気に楽しく過ごしていました。

それでも、そんな生活をずっとくり返していると、だんだん体のリズムも調子がくるってきます。
大学3年の頃から、今までに感じたことのない体の不調を感じるようになりました。
一晩眠れば治っていた疲れがなかなか抜けなくなってきました。

大学4年になり、将来の進路について真剣に考える必要が出てきました。卒業研究、論文発表、就職活動など、それまでにはなかった精神的なストレスも加わりました。

不規則な生活をくり返してバランスを崩していた体に、さらに精神的なストレスが加わり、体調が一気に悪化しました。

全身のだるさ、めまい、吐き気などを感じるようになりました。

会社員時代

それでもなんとか無事に大学を卒業し、名古屋にあった老舗繊維のメーカーに就職することになりました。

高校時代は、とにかく現役で大学に入ることだけ考えていて、「将来こうなりたい!」というはっきりしたビジョンを持たないままに進学しました。
そして、就職もなんとなく決まりました。

就職先は上場メーカーで福利厚生もしっかりとした会社でした。
周りからもまずまずのところに就職が決まってよかったね、と言われました。

ところが実際に就職して数年間働いているうちに、このままこの仕事をしながら年をとっていくことが怖く思えてきました。

なんとなく、なりゆきで敷かれたレールの上をそのまま進んできたような感じがして、「これでよいのだろうか?」という疑問が日に日に大きくなってきました。

上司や先輩も優しかったし、仕事の内容もそんなに大変ではなかったし、ほぼ定時で帰れたし、それでも「このままではいけない!」というあせりのような、不安のようなものがどんどん膨らんできました。

「自分の人生を生きていない」という感覚、「自分には他にやるべきことがある」という直観のようなものがありました。
しかし、行動に移す勇気がなく、毎日もんもんと過ごしているうちに、体調が急に悪化しました。

それまでも学生時代から感じていた、だるさ、めまい、吐き気がものすごくひどくなって、立っていることもできなくなってしまいました。
会社も何週間も欠勤し、優しい上司と先輩がお見舞いに来てくれて、病院にも連れて行ってくれました。

検査結果は「異常なし」でした。
病院を転々としました。「疲れでしょう」「風邪気味なんでしょう」といわれ、風邪薬をもらって、様子を見るように言われました。

なんとか起き上がれるようになっても、微熱がずっと続きました。
歩くとフラフラめまいがして、この先将来きちんと生活していけるのだろうかと不安になりました。

今考えると、自律神経のバランスをくずしていたのだということがはっきりわかりますが、当時は健康に関する知識もありませんでしたので、この先どうやって生きていけばよいのかわからなくなるくらい不安でした。

病院へ行っても原因不明と言われ、薬を飲んでも効かないので、自分で健康に関する本を読んで勉強を始めました。

症状は結果であり症状の原因である生活習慣を改める必要があることを知りました。
また、人間には自然治癒力という素晴らしい力が備わっていることを学びました。

食生活を改善し、呼吸法をやってみたり、整体、カイロプラクティック、ハリ、マッサージ、気功など、さまざまな民間療法の門を叩きました。

そうして、出来ることから生活を改善していくうちに、徐々に体調も改善していきました。

自然食品店への転職

自分で民間療法に通ったり、自然治癒力を高める本を読んだりするうちに、食生活の重要性を知りました。
食を通じて、人々の健康に貢献する仕事をしたいという気持ちが高まり思い切って名古屋の繊維メーカーを退職し仙台の実家に戻りました。

そして自然食品を販売する会社に転職しました。

人の体は毎日食べる食べ物から出来ています。
その人の体質も症状も、なんと性格までも食べ物からなんらかの影響を受けているのです。

この会社では人間の健康にとって、食べ物は最も大切な要素なのだということを学びました。
自分でも食改善実践して徐々に体調も良くなりました。

自分の体の内部から体質改善を実行してきたわけですが色々勉強するうちに、体の外からのアプローチも大切ではないかと思うようになりました。

カイロプラクティックとの出会い

人間の体の構造的な部分、つまり筋肉や骨格のバランスを整えることも大切なのではないかと思うようになりました。

自分で出来る整体の本を買ってみたり、体操やストレッチをしたりしながら、体の外からも健康になるようにいろいろと出来ることをはじめました。

ところが、自分の体を自分で外から治していくのには限界があるなぁと思いました。
基本的には、健康は自分で創っていくものですが、自分では出来ない部分のお手伝いをする仕事にもあこがれるようになりました。

自分の手に職をつけて、手技療法のプロになりたいという気持ちが強まってきました。
様々な資料を取り寄せ、自分で治療や施術を受けた結果、カイロプラクティックの学校に入学することを決めました。

自然治癒力を大切に考えていること、アメリカでは医師と同等の資格として認められていること、理論がしっかりしていること、高い専門性、そして何より、自分がカイロプラクティックの施術を受けた後の「体がすっきりした感覚」を元にカイロの学校に入学しました。

そして、カイロプラクティックを専門に学び骨格矯正や筋調整、神経バランス調整の技術を身につけました。

操体法との出会い

操体法は仙台の医師・故橋本敬三先生が創始した独特の療法です。

何が独特かというと、普通は施術者が治す人、患者さんが治してもらう人、という関係なのですが、操体法は、患者さんが治す人、施術者がお手伝いする人なのです。

操体法のことは、自分で手技療法について調べているときに本で読んで知りました。
一般向けの本も多数出版されていて、自分で行なう操体法の本などもあり、私も自分でやってみたりしていました。

またクライアントさんに対しても、操体の手技(操法といいます)を用いて、それなりに効果を感じていました。
操体法は全国に広まっていますが、創始者橋本先生が本当に伝えたかったことを、実践している先生は数少ないと聞きます。

そんな中で、伝説の温古堂で橋本先生の代診を務めておられた今昭宏先生の勉強会に参加させていただくようになりました。

今先生の勉強会に参加するようになり、私の手技や健康に対する考え方や哲学が大きく変化しました。

それまでは、単なる一つの治療テクニックとして使用していましたが、患者さんの人間そのものを診るという姿勢、治療するという意識でなく、クライアントの体から教えてもらうという意識など、施術家としてのあり方も勉強させていただいています。

「もともと人間は健康で幸せになるように創られている」という操体哲学も大好きです。

操体法を学び、操体法を実践するに連れ、操体法の素晴らしさや奥深さにどんどん魅せられるようになりました。現在では操体法の哲学が当院の施術の柱となっています。
さらに操体哲学を基に、独自に操体法を研究・発展させ続けています。

赤ちゃんのときの手術体験

生後数ヶ月で鼡径(そけい)ヘルニアの手術を受けました。
小さい頃は記憶力が良く、今でも手術の日のことを覚えています。
ベッドの横でお医者さんが母親にむかってしゃべっていた内容や、その時の情景をはっきりと覚えています。

手術したこと自体は全然知らなくて、ずっと夢の記憶だと思っていたのですが、小学生のときに母から「赤ちゃんのときに手術をしたんだよ」と知らされて、そのときの会話の内容や、状況が自分の記憶とぴったり同じだったので、とてもびっくりしました。

小さい頃から病院に対してものすごい恐怖心をいだいていたので、手術を受けた話を聞いてすごく納得した覚えがあります。

現在でも病院やお医者さんが苦手です。
できるだけお医者さんのお世話にならないように日頃から予防に気をつけています。

小学校の卒業アルバム

小学校の卒業アルバムに「20年後の自分」というコーナーがあり、私はそこに社長と書きました。
特にどんな会社をつくろうというイメージはありませんでしたが、漠然と自分で独立して何かやりたいと思っていました。

開業したときに、卒業アルバムのことを思い出し、妻に見せました。
一人の整体院ですから社長とはちょっと違いますが、ちょうど小学校を卒業して20年後の32歳の年に開業したので、ふと思い出したのです。

懐かしさとともにページをめくっていると、別のページに好きな言葉を書くコーナーがありました。
みんな「友情」とか「お金」とか「努力」とか書いてるわけです。

そこに当時小学6年生の私はなんと「健康!」と書いていたのです。

20年間すっかり忘れていたので、自分でもとてもびっくりしました。

小学生のときは健康になんか興味をもっていた覚えはなく、たまたまそう書いたのかもしれませんが、今の仕事とのつながりを感じてとても幸せな気持ちになりました。

前世の話その1

前世を信じる人とそうでない人がいます。
私もどちらが正しいのかわかりませんが、いろいろなことを勉強してきた結果、「前世は存在する」と仮定したほうが、より生きやすい人生になるという結論に至っております。

私は「前世が見える」という人から何度か、自分の前世を観てもらったことあります。

1人目の方は私が自然食品店の店長をしていたときのお客様でした。
その方は、いつもお店に買い物に来ると野菜や商品と会話をしながら、購入するものを決めていました。とても不思議な方でした。

ある時、その方のお宅に配達に伺ったときに「あなたは昔修行のしすぎで死んじゃったの。お坊さんの姿が見える。」と言われました。

激しい苦行をして修行中に死んでしまったお坊さんの前世が見えるのだそうです。
そして「もっと遊びなさい」と言われました。

そう言われて自分ではっとしたことがあるのですが、当時は遊んでいても何だかつまらなかったのです。

いつも「自分にはもっとやるべきことがあるのではないか」
「自分をもっと高めるためにはどうしたらいいか」
とそんなことばかり考えていました。

その方に見えたお坊さんが本当に私の前世なのかはわかりませんが、「もっと遊びなさい」というメッセージは心に響いたのを覚えています。

前世の話その2

また別の機会に別の方に、何人かの仲間の先生方と一緒に前世を観てもらったことがあります。

事前に「何か聞きたいことがあったら質問してください」と言われたので、私は「子供の頃からの緊張しやすい性格」について質問しました。

するとその方は水晶に向かって何やら呪文のようなものを唱えながらトランスのような状態になって、それまでとは違う口調で語りだしました。

要約するとそのとき見えた私の前世は「舞台女優」
芝居小屋のようなところで一座を背負って立つ看板女優だったとのことです。
それで活躍していたのですが、自分が年を取って若い頃のような魅力が失われていくことを認められずにいたんだそうです。

そしてある時酔っぱらったお客から「ひっこめ!ババア!」という感じの暴言をあびせられ、それがショックで引退しその後も寂しく暮らして死んでいった、という話でした。

これまた本当かどうか確かめようがないのですが、その場に10名ほど一緒にいた人の中で他に二名ほどどちらかというと霊感が強い体質の人が同席しており、その人たちは私の知人だったのですが、同じような着物を来た女性のビジョンが見えたんだそうです。

なので、何かしらそのような共通するビジョンが複数の人に見えていたということは確かなようです。

それと、舞台女優という前世を聞いて、面白いなぁと思ったことがあるのですが、私は昔から色や形などのデザイン系に関しては自分の感性に対する絶対的な信頼感があるのです。

子供の頃から図工や美術の成績はとても良かったし、絵を描くことが好きで、学校の図工の時間に書いた絵が市や県の絵画コンクールなどで毎回のように表彰されました。

習字も習ったことがないのに市の書道展で入賞したりもしました。

また、以前から女性が髪形や化粧やファッションに自然と目が行く傾向があります。
知り合いの女性が化粧や髪型を変えると敏感に気付きます。

デザインや美的なものに対する興味が高いのは、この前世が関係しているような気がしました。
(前世を観てくれた人には事前にそんな話は一切していませんでした。)

それと、昔から他人から非難されたり、攻撃的な態度や言動をされることに対して、人一倍恐怖感や不快感が強くありますので、もしかするとそれも前世からの影響があるのかもしれません。

私は、魂は不変であり肉体が滅びた後も存在を続けると思っていますし、過去世からの延長上に今の自分がいると思っています。
私たちは過去世で負った心の傷や乗り越えるべきテーマを持って今世に生まれています。
それぞれ何らかの使命を果たすために生まれてきました。

私の今回の人生では、他人を心から信頼したり、気持ちを分かち合ったり、人と人の繋がりや絆の大切さとか、ありがたさを学んでいるような気がします。

だから、こうして整体の仕事を通じて様々な方の心や身体や魂に触れたりしていることが、たまたまの偶然ではなく、なるべくしてなったと思っています。

また整体院に来院するクライアントさんとも、もしかするといつか前世で出会っていたかもしれませんし、こうして私のプロフィールをじっくり読んでくださっているあなたとも、昔遠い前世で会っていたかもしれませんね(^^)

長文お読み頂きありがとうございました。

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